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2009年2月24日

誰にも言えなかった、あの日の話。

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先生の話を聞き終わる前に、私は教室のドアを乱暴に開けて、出て行った。先生の顔を見ずに、階段を駆けおりた。涙が止まらなかったけど、拭きもせずに、家まで走って帰った。

それが、6年間通ったエレクトーン教室最後の日だった。 

どうしても音楽が習いたかった。うちが経済的に余裕がないのを知っていながら、2年間粘った。両親は、私のいとこの家から古いエレクトーンを譲り受け、狭い家になんとかスペースを作って、習いに行くことを許してくれた。小学校3年生のときだった。

うれしくてうれしくて、毎日毎日練習した。すぐに上達して、あっという間に基本を終えて、数ヶ月で次の本に進んだ。物足りなくて自分でもいろいろ楽譜を買い込んで練習した。流行の歌謡曲なんかもいろいろ弾いた。

ある日、「試験を受けてみたら?」と先生に言われた。
当時、エレクトーンは13級から受けられる試験制度があった。私は年齢的にちょっとスタートが遅かったこともあり、9級から受けることを勧められた。先生の資格が得られるのは5級より上。5級に受かれば先生になれるのだと思い、先生を目指そうかなと思い始めた。

9級の試験の日、私は39度の熱を出した。注射を打って熱を下げたものの、相当ふらふらしていた。3人の試験官は、全員非常に厳しい評価を出したけれど、ボーダーラインで合格した。当時私が住んでいた仙台は、非常に厳しい試験官が多いことで有名だったことをあとで知ったけど、それでも私はすごく悔しかった。C評価で合格なんてありえない!と思った私は、1年くらいあとで8級を受けた。3人ともA評価で合格。雪辱を晴らした。多分これが、小学校5年くらいのとき。

壁にぶち当たったのは、7級のときだった。結局私は、7級は受験せずに終わってしまうことになった。7級がどうしても受験できないまま、4年の月日が流れた。

受験できなかった理由は、聴奏→即興演奏ができなかったから。
(当時の)8級には、試験官がまず曲を弾き、そのあと受験者がそれとまったく同じ演奏をするという「聴奏」という試験があった。7級は、この聴奏をしたあとそのまま、その曲のアレンジをして演奏しなければならない。これが、即興演奏。

聴奏は非常に得意だった。間違えない自信があった。そして作曲も、作曲コンクールに入選したくらい好きであり、得意だった。でも、どうしても「自分で作ったものをその場で聴かせる」ことができなかった。曲が作れないからではない。メロディーはすぐに浮かぶ。でも、それを人に聴かせるのがどうしても恥ずかしかった。

誰もが、私に即興演奏の力がないと判断した。当たり前だ。
悔しかった。できてるのに。頭にあるのに!人に見せようとすると、手が震えて止まってしまう。 

最後の日、私は先生に言われた。
「ただ、自由に思ったまま弾けばいいのよ。」 

ただ、自由に!?自由のどこが「ただ」なんだ!! 
自由に何かを表現するということがどれだけ難しいことか、先生にはわかる?
私にとってそれは、その場で服を脱ぐことよりも恥ずかしいことなんだ。自分が思ったことをそのまま出して、それを先生に「評価」されることが、本当に恥ずかしかった。なんで自分をこの人に見せる必要があるのか理解できなかった。

そうして私は、最後に先生に挨拶もできずに、泣きながら教室をあとにした。
親にも友達にも誰にも言えなかった。はっきりと挫折を意識していたから。 

誰かの望むとおりに何かを表現することは、とても得意。
でも、自分のやりたいように何かを表現することが、とても苦手。 
私はそんな子どもだった。

あの日のことを思い出させてくれた、このエントリーに感謝。
「卒業していく君」が、「エレクトーン教室最後の日の中学2年生の自分」と、本当にぴったりかぶってしまった。

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