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2009年3月22日

〔読了〕煩悩リセット稽古帖

Category:[ つぶやき, やってみた, 読書記録, 週末日記 ] Tag:[ ]

こんな本を読んだりしてみました。

煩悩リセット稽古帖 小池 龍之介 (著)

29歳、私より年下のお坊さんが書いた本です。4コマ漫画と、1~2ページくらいの文章で1セットという感じで、読みやすいです。でも私はすごく考えてしまって、何度も進んでは戻って読んでました。

iede.ccというサイトでずっとコラムを書いている方で、この本はそこからの抜粋だそうです。へー、と思ってアドレスバーに打ち込んでみたら、「ie」と入れた時点でアドレスが表示されたので、どうも私は何度か訪問したことがあったみたいです。

読んでいる間私がずっと考えていたのは、「無我」と「無常」の意味。多分両方とも私は今まで理解していなかったと思います。というかまだ理解できてない。この本ではずーっとこの2つの言葉について説いているように見えました。私には。

読んでいるうちに逆にわからなくなってきたのです。特に「無我」について。
自分が見たり聴いたり嗅いだり考えたり触れたりしたことは、「自分のもの」じゃない、というところがどうもあまり理解できない感じなのです。本の言葉をそのまま引用すると、

たとえば、もしイライラしたら、「このイライラはわたくしのものではない、このイライラはわたくしではない、このイライラはわたくしの本質ではない」と繰り返し念じて己に言い聞かせ、 感覚を切り離してあげてみてください。

とあるんですけど、それに強い罪悪感を持つ自分は、おかしいのかなあ…と考え込んでしまうのです。イライラしているのはよくないことであって、自分がいけないことをしているのに、そのイライラは自分ではないと思うことは、逃げているというか、責任転嫁というか、そんな気がしてならず。

自分の中で起こっている感情の変化とか、知識の変化とかそういうものを、外から客観的に見てみるといいよってことなんだとは思うのだけど、なんかそれがすごく罪なことのような気がするのはなんでだろう。

「無常」についてもそう。「自分の感情なんて一定していないもので、一度いいと思ったものに対して、次の瞬間にはまったく興味がなくなっていたりすることもある。それを受け入れなさい」という感じの内容のように思ったけれど、それでいいのかなあ。思ったことが統一できないことは、どうもやっぱり罪なことのような気がしてならないのだよなあ。有言不実行はしょうがないと言ってしまっていいということ?

そういうことを思ってるから、ストレスをためるってことなのか?

そんなわけで、煩悩リセットは私自身はできていない感じがするのですよね。
むしろなんだか考え込んでしまって、どうしていいのかわからなくなった感じ。本の内容を批判しているわけじゃなくって、私の理解力がないということを暴露しているわけですけど^^;

「私」から「自分」が切り離せたら、どんなに楽だろうか。。。

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