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2010年1月24日

妻から見た、えふしんとモバツイの軌跡(奇跡?)

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おそらくこのブログを見ている人はご存知の方も多いと思うのですが、私の夫・えふしんは、勤めていた会社を昨年末で退職し、独立しました。私も現在会社のオーナーなので、夫婦でそれぞれ別の屋号(社名)で独立したということになります。夫本人だけではなく、私にもたくさんのお祝いの言葉をいただき、本当にありがとうございます。

お祝いと同時に、みなさんからいただくFAQがあるんです。

  • えふしんが独立するとき、ふうりは反対しなかったのか?
  • 夫婦で一緒の会社でやっていくということは考えなかったのか?

今回はそれに答える意味で、書いてみます。かなり長いです。7000字。
夫婦そろって長文ブロガーですみません。

私たちの出会い

そこからかい!って感じですが、そこから話さないと話が通じないと思うんですよね。

私たちが初めて「出会った」のは、パソコンの画面上でした。
もう、15年以上前の話です。当時、私たちは大学生でした。

今もそうなんですけど、私はネット上だけでやりとりしているよりも、オフ会とかでわいわい騒ぐ方が好きなので、しょっちゅうオフ会の幹事をしてました。私が主催するオフ会に彼はよく来てくれていました。

社会人が多かった中で、その当時では珍しい同じ年の学生同士だったこともあり、よく話をするようになりました。当時は、女子でパソ通をやっている人は珍しかったこともあって、私は本名は誰にも話していなかったんですけど、ネットでできた友人として、最初に本名と電話番号を明かしたのが、彼でした。

ということで、時々電話したり、2人で会ったりするようになっていき、結局付き合うようになり、結婚したのはその2年半後くらいです。えふしんは社会人2年目、一浪していた私は大学を卒業してすぐのことでした。

夫婦でデジハリに入学

結婚して2年半くらいが過ぎたころ、テレビで偶然、渋谷のQFRONTができるニュースを見て、6Fにデジタルハリウッドという学校ができると知りました(注:今は移転して別の場所にあります)。そういう学校の存在自体を知らなかった私たち、何かピンとくるものがありました。

パソコン通信時代、私は掲示板の管理人をしていました。彼と親しくなってからは、彼を副管理人に任命して、2人で掲示板の管理をしていました。そのときに考えていたことは、今と変わりません。ネット上での文字だけのコミュニケーションを、いかに円滑に、楽しいものにするか、それを管理人がどうナビゲートできるか、ということを私はずっと考えていて、その考えに、彼も同意してくれていました。

ネットの楽しさも怖さも知っている私たちが、どうして、ネットとはぜんぜん関係ない業界で仕事をしているんだろう?私たちは、ここにいていいのか?ネットでの活動が仕事として成り立つのなら、私たちは、ネットに「戻る」べきなんじゃないか?
デジハリの存在を知ったときに、私たちは同じようなことを感じていたんじゃないかと思います。

気づいたら、入学手続きの書類にハンコを押していました。2人とも。
当時、夫婦で同時にデジハリに入学手続きをしたのは、(たぶん)初めての事例だったそうです。

夫婦同時転職

こうして、2000年1月から7月までの半年間、私たちは、デジハリ渋谷校の1期生として通いました。私はWebデザイナーコース、えふしんはWebプロデューサーコースで、夫婦ですごくがんばった半年間でした。お金はかかったけど、それだけの意味はありました。最後の卒業制作は、だんながプロデュース、私がデザインをして、サイトを作りました。

卒業直前、私は、とある(結構大きめの)飲料メーカーのサイト制作を個人で受けるチャンスをいただきました。同時期、えふしんも、デジハリの講師だった制作会社の社長に声をかけられ、転職のチャンスをいただきました。こうして、私はフリーランス、えふしんは制作会社の社員として、Web制作という同じフィールドへ、同時に転職をしたのです。

だんなは一部上場企業から社員数10人ちょっとのベンチャーに転職でしたし、私はフリーランスなので、本当に生活して行けるのか?という不安がなかったといえばうそになりますが、当時の私たちには、デジハリでがんばってきたことへの自信があったんだろうなと思います。若かった(笑)

だんなが、独立することを口にしたのは、このときが最初です。27歳のとき。私がフリーランスとして踏み出せたのも、だんなと一緒にやっていくという前提があったからでした。Webエンジニアとして独立するためには、まず制作会社での経験を積むことが必要だと考えた彼は、それを社長に話した上で入社しました。だから私は、しばらくその会社で彼が修行したら、数年後には独立するものだと思っていました。

ところが、その後彼が突然、「35歳まで独立しない」と言い出したのです。何を思ってそう言ったのかあまり覚えてないんですが、とにかく、彼はタイムリミットを35歳と定めたようでした。私としては、だんなと一緒にやることを前提にフリーになったこともあり、「えーーー!私、それまでずっとひとり!?」という感じでした^^;

でも、私はどこかで信じていました。絶対彼は、このフィールドで注目されるような人になるに違いない。私はいつか、それについて行く人になればいい、と考えていました。そのあたりの話はちょっと前に書いてます

受託からサービスへの転職

えふしんがその会社に入ってから3年半くらいが過ぎたころ、彼が転職を考えはじめました。ちゃんと考えようということで、1週間の夏休みをフルに使って考え抜いて、夫婦で話し合い、転職に向けて動くことを決めました。制作の受託だけをやっている会社だけではなく、Webサービスの運営を主体にやっている会社も経験したほうがいいのではないか、というのが彼の出した結論でした。

まあ詳しくはここで。(古いエントリー引っ張りだしてすんません>だんなさま)

いろいろ作戦を練り(?)、mixiメッセージで、当時すでにマイミクだったペパボの家入社長(当時)に転職希望を出したというのが最初のアクションでした。こうして、彼はペパボへ転職をして、カラメルというWebサービスをプロデュースする立場になりました。私から見て、これが彼の独立への修行第2フェーズのスタートでした(彼としてはそういう意図はなかったみたいですけど)。

ペパボという会社は本当にいい会社だと思います。人もサービスも素敵です。なんか、人間的です。彼はいい会社で過ごすことができたなあ、と思っています。

第1次Twitterブーム到来

2007年4月、「第1次Twitterブーム」がきました。私のように新しいコミュニケーション系のWebサービスに飛びつくような人たちがこぞって参加し、なんじゃこりゃー!と驚いていた時期でした。

参加をしてから1週間後、突然私のところに執筆のオファーがきました。技術評論社のWeb Site Expertの編集長・馮(ふぉん)さんからの、mixiメッセージでした。もともと、WebSigのモデレーターをしていたからみから、名刺交換はしていましたし、お話もそれなりにしてはいたんですけど、私はもともとほんとに制作畑の人で、執筆を本業にしていたわけではなかったので、とてもびっくりしました。

なぜ私にオファーがきたかというと、おそらく、この記事を読んでくださったからだと思います。ほんとに使い方をいろんな人に聞かれるのでなんとなくまとめてみた日記でした。

このときに書いたgihyo.jpの記事は、(ブロガーさんの記事以外で)メディアとしては初めてのTwitterの解説記事となり、当時まだスタートしてまもなかったgihyo.jpの認知度を上げることにつながった、とあとから聞きました。というか今でも、gihyo.jpの人気記事として載ってたりして、どうしましょうという感じなんですが^^;; 今見たらトップ記事だ。なんかすいません。(もう情報が古すぎてぜんぜん役に立たないのです…)

これをきっかけに私は書く仕事が突然増えることになり、(実は長年の夢だった)本や雑誌に記事を書いたりできるようになりました。

モバツイッターの誕生

その後、私が強く勧めて、あとからTwitterに参加したえふしんは、Twitterが完全に日本語対応していないことにイライラしたようでした。みんながいろいろ裏技を使ってなんとか日本語でやりとりしているのをツールにしてみようと思ったらしく、モバツイッターの原型となるものを作り始めました。そのあたりの話は岡田有花さんのえふしん取材記事にもあります。

TwitterのAPIは、開発者のみなさんにとっては使いやすかったようで、みんなこぞって、いろんなちょこまかしたものを作っては公開していました。ちょうどゴールデンウィークだったこともあって、日曜大工的に、みなさん楽しんで作っていたようでした。だんなもその中の一人だったわけです。

その後彼は、携帯に対応するようなものを作ってみようかなあ、と言い出しました。What are you doing?という質問に答えるというコンセプトのTwitter(当時。今はWhat’s happening?) なら、携帯から投稿できて当然じゃないの?と考えるのは自然なこと。それ面白い!と私は大賛成したのと同時に、「早くリリースしなきゃ、先を越されるよ!」と強く発破をかけました。ということで、夫婦の楽しいGWはすべてモバツイのために捧げられ、私は結構暇だったんですが、密かにわくわくしていました。これは、もしかしたらおもしろいことになるぞ、と。

このサービスの名前どうしよう、と相談されたのですが、うまい案が思いつきませんでした。結局私が何も言えないうちに、彼が、「モバツイッターにしようかな」と言ってきました。私は「えーーーベターー」とか言ってしまったんですけども、まあわかりやすいほうがいいし、いいんじゃない?と返事をしました。

モバツイッターのスペル(movatwitter)については、夫婦で話し合わないうちから一致していました。mobileじゃなく、moveだよね、と。だからアイコンも足あとなのです。

それでも、モバツイをやめなかった

リリース直後、モバツイは運良く(?)アルファブロガーの方たちを中心に最初に広まり、露出が高くなったおかげで、予想以上にユーザー数が増加しました。

その後、Twitterブームはいったん下火になります。Twitterが結構よく落ちるとか、トラブルが多かったこともあってか、2007年当時飛びついていた、ネット上で発言力のある人たちがTwitterで発言をしなくなっていきました。日本でも類似サービスが登場したりして、ユーザーが分散したということもあったかもしれません。私自身、半年くらい一度も発言していなかったんじゃないかと思います。

が、えふしんはモバツイをずっと改善し続けていました。自分が便利だと思った機能の追加をずっとやり続けていたし、画面の使いやすさの向上についてもずっと考えていました。他の携帯用Twitterサービスが自然消滅し、モバツイのユーザー数の増加が横ばいになり始めたことを知っていても、「とにかくサービスが止まらないこと、いつでもみんなが使えること」を最優先にして、モバツイに向き合っていました。

もうそろそろTwitterは飽きられちゃったんじゃないの?と言われ始めているのに、それでも彼は、モバツイをやめなかった。あのときの彼のモチベーションって、なんだったんだろう。ペパボというサービス運営会社にいて、うまくいっているサービスも、そうでないサービスも、ユーザーがいる限りはがんばる、みたいな現場を見ていたから、なのかな。

そして、35歳

2008年8月、独立するタイムリミットとしていた35歳になっていた彼に、「会社をやめて独立しようと思う」と言われました。ただ、ペパボでどうしてもやりたいことがあるから、それをやって結果を見てからやめたい。だから、辞める時期は来年末ごろだと思う、と言われました。

そのときは、モバツイとはまったく関係なく、今後の計画として独立したいと言ったんだと思います。自分のやりたいこととか、ビジネスモデルとかを、この1年数ヶ月の中で考えていきたい、と思っていたのでしょう。私としては、もう8年も前からの計画だったわけで、驚きは特にありませんでした。

でも、私はその当時すでに、フリーランスのユニットで活動を始めていて、だんなと一緒にやることを想定してつけていた屋号での活動はもうほとんどしていませんでした。まあ、ずーっと待っていたのだけど、待ちきれなかったから自分でやりたいことを始めちゃった、というところかな。

独立するといっても、まだ1年以上先の話だったし、夢物語レベルなのかなと思っていたら、彼は意外と早く計画を実行に移しました。私に話をした数日後、社長にその話を直接した、という報告を受けました。

これは大変だ!と思いました。私はフリーランス8年目とはいえ収入が安定しているとは言えず、夫婦2人とも独立して共倒れしたらやばい!と思った私は、もともと検討課題だった法人化を実行に移したいと、相方izuizuに相談をしました。彼女は、二つ返事でOKしてくれました。(今思うとこれも奇跡的な気がする)

私たちが法人化をした理由自体がだんなにあるわけじゃないんですが、最終的な背中を押したのは、このことがあったからだと思います。

第2次Twitterブーム到来

2009年頭あたりから、なぜか急に、2007年にTwitterをやっていた人たちがTwitterに復活し始めます。あれはなんだったんですかね。私もその一人なんですけど(私は仕事上の理由があったからです)、不思議な空気でした。

そこから、有名人やメディアがばしばし参加するようになっていき、そこをきっかけに「一般人」の参加が増えて行ったことで、再びブームが到来した感じがします。当時、日本の携帯でTwitterをやるためのサービスは、事実上モバツイの一人勝ち状態になっていたので、ものすごい勢いでユーザー数が増えました。自宅サーバーでの運営はもう限界に近づいていて、自宅からネットそのものができなくなってしまい、当時自宅でやっていた私の仕事にも影響が出始めて、ちょっとまずいんだけど!とだんなにクレームを出していました。

みなさんのあたたかい寄付に後押しされたことや、Twitter公式の日本語版のモバイルサイトが出るという発表があったこともあり、彼はモバツイの運営にちょっとお金をかける決断をしました。それが、Amazon EC2へのサーバーの移転だったわけです。

モバツイのユーザー数はその後も増え続け、ほんとに、個人では支えきれないサービスになっていきました。でもだんなの独立の決断はこれよりも前だったわけで、これは神様からの応援だったとしか、私には思えないです。
モバツイも、だんなも、本当に運がいいなあと思います。

この運がいつまでも続きますように。

そして、今。

2010年1月、えふしんは私に言った通りのスケジュールで、独立を果たしました。今は、お互いの会社同士で受発注したりもするようになり、なかなかいい関係なんじゃないかなと思っています。一緒の会社で運命をともにしてもよかったのですが、こうやって、対等な立場でパートナーとして接しているのもいいなあと、今は思っています。

彼は人生のパートナーであるのと同時に、ネットの世界を楽しむ同志であり、仕事としてWebに関わって行く対等な仲間でもある。そういう距離感が、今は心地よい感じです。

私は、彼が独立するにあたって書いた彼のブログの記事の文章がとても好きです。
http://www.milkstand.net/fsgarage/archives/001662.html

彼、実は文章はあまり得意じゃないです。自分の思うままに書く文章はいいんだけど、「書かされる」文章になると急にだめになります。だから、私は彼のブログの内容をほめることはめったにありませんが(笑)、この記事は好きなのです。

できれば、多くの企業が持っている強みをの中で、まだまだネットには繋がっていないものを、うまくネットに繋げてビジネス化するご協力ができないかと思っています。

とか、

Webは技術を使って、人の想いを可視化して人と共有しあう仕組みですので、そこの部分を常に意識できる仕事をし続けたいと思っています。

とかといった部分は、私がやっている仕事ともつながる部分です。方法は違っても、たどりつくゴールが同じ。そんな会社を夫婦それぞれがやっていけることは、とても幸せなことだと思っています。

えふしんに負けないように、私もがんばらなくては!とは思いますが、ライバルというよりは、どちらかというと、最大の応援者でいたい、と思っています。

彼の会社、「ヒトの想いをカタチに創る会社」想創社を、どうぞよろしくお願いします!

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